「行かない」の受容:学校がすべてではないと心が追いついた日

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「行かない」の受容:学校がすべてではないと心が追いついた日

長い冬休みが終わり、
周囲の子どもたちが再びランドセルを背負い始める時期になっても、
娘は「学校に行きたい」とも「行きたくない」とも言いませんでした。
その口から学校の話題が出ることはなく、
登校していく子どもたちを窓から見送っても、
以前のような不安定さを見せることはありませんでした。

娘の心の奥底がどうなっているのか、私にはわかりませんでした。
静寂の中でただ時間だけがゆっくりと流れていく。
しかし、その静寂は、以前のような張り詰めた静けさではなく、
何かを待ち、受け入れるための穏やかな時間へと変わり始めていました。

デイサービスには安定して通えるようになり、
私と離れることへの極度の不安も少しずつ和らいでいきました。
毎日欠かさずつけていた「腹痛日記」には、
「今日は痛くない」「朝から元気」と書かれる日が増えていったのです。
その記録の空白こそが、娘の心と体の回復を何よりも雄弁に物語っていました。

この頃、私はようやく、心からそう感じられるようになりました。

「学校に行かなくても、娘は娘らしく生きていける」。

頭ではずっと「学校がすべてじゃない」と理解していたつもりでしたが、
世間の常識や周囲の目に囚われ、
どこか無理をして言い聞かせていたのかもしれません。
しかし、娘の平穏な表情や、痛みの記録が減っていく現実を見るにつけ、
ようやく心がその言葉に追いついてきた気がしました。

娘の笑顔は、冬の澄んだ空気のように清らかに戻り、
不安で凍りついていた私自身の心も、
少しずつ前を向けるようになっていきました。

焦らず、誰とも比べず、ただ娘と私自身の「今」を大切に生きること。
娘のペースを最優先にし、静かに見守ること。
それが、あの苦しい冬から立ち上がり、
私たち親子が手に入れた、新しい人生のテーマとなったのです。

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