“学校に行く”って、なんのため?
学校に行くことを諦められず、
私はそれでも支援級の体験を続けていました。
「いつかは慣れるかもしれない」
「少しずつでも行けるようになるかもしれない」
そんな希望を、どこかで信じていたのだと思います。
ある日、二時間目から登校しようとしたときのこと。
玄関で、同じようにお母さんに引きずられるように登校している子どもを見かけました。
その子は、学校の柱にしがみついていました。
必死に学校に行くまいとする小さな体。
泣きながら、それでもお母さんに引かれていく姿を見て、
私は思わず立ち尽くしてしまいました。
――本当に、そこまでして学校に行かなければいけないのだろうか?
その子の姿を見ているうちに、自然と涙があふれていました。
お母さんの気持ちも、痛いほどわかる。
“なんとか行かせなければ”という焦りと、“行かせたくない”という心の板挟み。
そして、泣きながら抵抗する子どもの心の叫び。
あの瞬間、私は心の中で決めました。
「もう、この状態になったら、学校には行かせまい」と。
それからも、特別支援コーディネーターの先生は
「学校に来たら元気にしてますから」
「学校に来させたらなんとか過ごしてますから、大丈夫ですよ」
と何度も言ってくださいました。
でも、私は今でも思います。
――“大丈夫”って、いったい何が大丈夫だったんだろう。
娘の心のフォローをしてくれていたのだろうか。
それとも、“登校できた”という事実だけをもって“大丈夫”とされたのだろうか。
“学校に来ている”ことが“心が元気”である証にはならない。
あの頃の私は、その言葉にすがるしかなかったけれど、
今ははっきりと言えます。
あの「大丈夫」という言葉は、
私たち親子の本当の“大丈夫”では、なかったのです。



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